大悲山修験ものがたり

  • 2.霊山として大悲山 2.霊山として大悲山

平安時代に大きく発展した修験道。
大和の葛城山、紀州の熊野、大和の金峯山を中心として、出羽三山、日光ニ荒山、伊予の石槌山,摂津の箕面山,豊後の彦山,加賀の白山,信濃の戸隠山など、
霊山と呼ばれる全国各所で修験道の各派が生まれました。

 

山だらけのこの国において、なぜ大悲山が修行場とされたのか。
他の例からここが霊山として認められた場所であったからだと類推されますが、
そのように定められたひとつの理由として、仏教の九品浄土という考え方に照らし合わせた時、峰が三つ重なって九品(九つのエリア)を描いた時の真ん中「中品中生」に大悲山が当たる為という話が伝えられています。
ここが浄土の真ん中であり、神聖な場所とされたという訳です。

   

さて、それではいつからここが修行場とされていたのでしょう。

修験道の聖地として有名な大和の大峯山(奈良県吉野郡天川村)に対し、大悲山は「北大峯」とも呼ばれ、峰定寺の開祖である観空西念が修行していたという事から、古くからその存在は認められていました。ただ、観空西念が最初の修験者であったかは窺い知ることは出来ず、もっと古くからいろいろな修験者がここで修業していた可能性も十分あります。

 

峰定寺の舞台から下を見ると雲海と樹海が広がりますが、その下には一の谷から十の谷まであり、それぞれに「鐘掛岩」「蟻の戸渡り」などと称する行場がありました。
(ちなみに、三本杉があるのは四の谷。)

 

大峯山、熊野などで修行を積んだ修験者であった観空西念が、山自体がご神体の大悲山において峰定寺を創建する時、修行場から不堕落浄土に上がっていく象徴として、舞台造の本堂を設計したのかもしれません。

 

大悲山への入山時は、そのような歴史に思いを馳せながら、一段一段上がっていく度、そして息を吸って吐く度に、心身が清められていく様を意識しながら歩を進めてくださいね。

アクセス情報はこちら